楠木正成8

北方謙三氏の図書「楠木正成」のあらすじを紹介しています。
前回のあらすじは、楠木正成7

建武の乱

8月、足利尊氏は、勅許もなく京を進軍しました。【1335年(建武2年)】
京周辺にいる軍勢も次々に足利の旗を追っていきました。
遠江で叛乱の軍とぶつかった尊氏は、北条一族の残党をたやすく破り、鎌倉を奪回しました。
鎌倉で、尊氏は勝手に征夷大将軍と名乗り始めていました。恩賞も尊氏の名で行いました。
足利の幕府ができたのと同じでした。

朝廷では会議ばかりで何もできずにおり、新田義貞を大将とする討伐軍が決定されたのは、尊氏が鎌倉に入ってから2ヶ月後でした。
一方、朝廷の決定に対する足利の反応は速いものでした。
新田義貞討伐のための軍勢督促状を、直義の名で出したのです。
これは巧妙に朝敵の汚名を避け、新田義貞の私闘というかたちに持っていっていることです。
11月19日、新田義貞率いる足利討伐軍が京を新発しました。

正成は宇田川で布陣、指揮する兵は3千。【1336年(建武3年)】
瀬田には、千種忠顕、結城親光、名和長年が1万5千を率いて布陣しました。

新田義貞の足利討伐軍は、足利直義が指揮する緒戦こそ連戦連勝でしたが、尊氏が出陣すると呆気なく敗れ東海道を潰走。
足利軍は新田軍を急追しながら、足利直義軍が瀬田へ向かい、元旦から戦闘が始まりました。

1月3日、正成軍は尊氏軍と宇治川を挟んで向かい合いました。
足利軍のうち尊氏が率いる3万が京に入るため、宇治川へ向かってきたからです。
しかし、正成とのぶつかり合いをさけた尊氏軍は退却を始めたころ、新田義貞が5万を率いてこちらに向かっているとの情報が入りました。
誘い出されたようなものでした。

結局、義貞軍は、赤松円心が出てきたたけで敗走してしまい、それを追撃する足利軍に京を奪われてしまったのでした。
奥州から北畠顕家がとてつもない早さで進軍してきたものの、京は足利軍の手に落ちてしまっていました。
1月16日未明、北畠、新田主力軍が三井寺の足利軍を攻撃し始め、昼まえには終わりました。
北畠軍を入れたことで新田軍の動きも迅速になったようです。
足利軍を半分は押し返し、京市内で両軍はにらみ合っていました。

しかし、日が悪い(=運勢がない)ので、総攻撃は数日待てと行在所(仮の御所)から通達が来たのですのです。
正成も北畠顕家も、今攻め続ければ勝てると思っていたのに、帝もその周りにいる者も全く分かっていませんでした。

その後、朝議で総攻撃の日が決まり、正成、義貞、顕家、名和長年、千種忠顕などと共に総攻撃をしかけると、尊氏は京都を追われ、京都を奪還できます。
ご紹介してきた図書では、敗走する尊氏が「正成でさえどうすることもできない軍勢を率いて戻ってくる。」と宣言する様子、武士たちが尊氏に従って共に敗走する様子(つまり足利の味方が多い)、正成が京から河内に戻って日常を過ごす様子が描かれ、物語はそこで終わっています。

続きは楠木正成9

北方謙三氏の図書「楠木正成」のあらすじを紹介しています。
本を読んでいただくと、当時の畿内の状況や正成の周辺など、様々なことを知っていただけますよ。
詳しくは、ぜひ読んでください。

 

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