楠木正成9

前回のあらすじは、楠木正成8

その後

ここからは図書には紹介されていませんが、正成は天皇に尊氏と和睦するよう進言します。
そもそも建武の新政で、公家ばかりを取り立てたのが原因ですからね。
しかし、朝廷の不信感を買って、正成は謹慎処分。

新田義貞が足利討伐軍になるものの、足利軍、赤松円心軍と戦っているうちに大幅に軍勢を減らしてしまいます。
足利軍が再び京に泊まることになり、帝はあわてて正成を呼び戻します。

京で尊氏を迎え撃つよう命じた帝に対し、正成は「尊氏の大軍にこちらの小軍でまともに戦えば負け戦です。帝はひとまず京を離れて以前のように比叡山へ逃れてください。その間に私は河内へ戻って準備を整え、京に入った足利軍を兵糧攻めにする…。」などといった作戦を申し出ますが、「天皇が京を離れると権威が失墜する。」と帝とその側近に却下。
さらに正成が得意とした奇襲攻撃も却下。
仕方なく正成は義貞と大軍の足利軍を迎え撃つため、湊川に進軍します。

ここで有名な「桜井の別れ」があります。
正成は息子の正行に別れを告げて、正行を河内に戻します。

湊川の戦い

正成軍はわずか700余騎。
義貞軍と分断されたのち、正成は700余騎を引き連れて足利直義の軍勢に突撃します。
直義の大軍を蹴散らして須磨まで退却させ、直義はなんとか逃げ延びることができたという状況まで追い込みました。

尊氏は直義が退却するのを見て援軍を出します。
6時間の合戦の末、正成と正季は敵軍に16度の突撃を行いますが、ついには73騎へ。
疲弊した楠木兄弟は、湊川の東にある村の民家に駆け込み、正成と正季は刺し違えて自害しました。
腹心の部下たちも自害したのでした。

正成の首級は、尊氏が正成の家族を気遣って河内に送り返し、今も観心寺に葬られています。

また、楠木家は代々南朝側に仕えて室町幕府に抵抗を続けてたそうですよ。

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