北方謙三氏の図書「楠木正成」のあらすじを紹介しています。
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建武の新政
恩賞の沙汰は、いい加減なものでした。
倒幕の戦を誰が支えてきたか、自分のために誰が闘ったのかも、帝は分かっていませんでした。
足利尊氏には、恩賞はなく、官位と名(帝の名前から「尊」の字)のみ。
しかし、尊氏は、自分が武士の棟梁であると示すだけで十分でした。
大塔宮は征夷大将軍となりましたが、武士の棟梁を意味するものではなくなっていました。
名和長年、千種忠顕など、そばにいる者には手厚く、楠木正成にはいくらか薄い。
赤松円心には恩賞がなく、大塔宮を支える大きな力であった円心が京から離れました。
尊氏は自分やほかの者の恩賞などそっちのけで、大塔宮の力を削ぐことだけに力を入れ、帝に影響力をもつ阿野廉子に工作をしました。
阿野廉子は、自分が生んだ子に帝位を継がせたい一心であり、帝は大塔宮が力を持つことを好んでいません。
二人とも、国という考えなど無縁な利己心で、大塔宮を排除しようとしていました。
9月、大塔宮は征夷大将軍を召し上げられてしまいました。【1334年(建武元年)】
帝は大塔宮の代わりに、新田義貞を征夷大将軍としました。
新田義貞と尊氏を対立させ、その上に帝が立とうとしていることは、尊氏には掌の上のことのように読めましたが、大塔宮と較べると新田義貞は軽い相手。
帝の命ずるままにしか動けないだろうし、武士の信頼もなければ、大塔宮ほどの理想もありませんでした。
大塔宮の死
大塔宮が捕縛されました。【1334年(建武2年)】
阿野廉子の意向を受け、その背後には足利尊氏がいます。
帝の権威を守ろうとする力がなくなり、帝は自らの首を絞めたことになりました。
大塔宮の処分は決定も早く、大塔宮は鎌倉に流罪。
鎌倉の足利直義(尊氏の弟)の管理下に置かれました。
つまり、帝が大塔宮を足利に売り渡したということでした。
そして、7月に入り、北条高時の遺児を擁した叛乱がおきました。
叛乱の軍は鎌倉へ向かいました。
鎌倉の足利直義は、叛乱を迎撃する軍勢を小出しに出し、負け続けました。
直義は、負けるために闘い、鎌倉が落ちた中で、大塔宮は直義に斬られたのでした。【1335年(建武3年)】
正成は、憑かれたように、河内に寺社を建立し始めました。
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北方謙三氏の図書「楠木正成」のあらすじを紹介しています。
本を読んでいただくと、当時の畿内の状況や正成の周辺など、様々なことを知っていただけますよ。
詳しくは、ぜひ読んでください。
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