楠木正成6

北方謙三氏の図書「楠木正成」のあらすじを紹介しています。
前回のあらすじは、楠木正成5

千早城の築城

正成は千早城を築くため、水源を確保するとともに、石を運び、材木を担ぎ、不眠不休で山全体を城にしてしまう作業を行っていました。
また、その近くに新たな赤坂城を築き始めました。【元弘2年(1332年)】
最後まで守り通すのは千早城だが、その前に華々しい戦を赤坂城で見せるために。
そして、築城中から菊水の旗を掲げ、旧赤坂城で死んだとも言われた楠木正成が、再び河内に戻ってきたことを天下に公言しました。

正成のもとに集まった悪党も含めて、正成は摂津へ向かって進軍し、天王寺で六波羅と対峙しました。

赤松円心の挙兵

年が明け、一月も終わりにさしかかったころ、赤松円心の挙兵が伝えられました。【元弘3年(1333年)】
はっきりと護良の令旨を奉じて決起したと表明しています。
円心の決起は、六波羅の大軍の京への発向と合わせており、軍の一部は播磨にむかうであろう覚悟も円心はしていました。

千早城の闘い

護良のいる吉野に7万、千早赤坂に7万が向かってきました。
赤坂城の背後に千早城が築かれており、3千規模の軍勢が赤坂城に攻めかかりました。
撃退されてはまた攻撃することを、実に9度繰り返しています。
赤坂城がいずれ落ちることは分かっていますが、ここで長く闘うほど、相手の手の内が見えます。

やがて赤坂城が落ちました。
赤坂落城とそれほど時を違えずして吉野も落ちました。
大塔宮は、吉野が落ちるとすぐに、反幕府勢力の結集を始めました。
そして、赤松円心は、播磨苔縄で挙兵すると、摂津へ進軍し、1万5千の幕府軍を3千で壊滅させ、今は摂津からさらなる進軍の構えを見せています。

千早城に籠るのは、楠木一党の5百でした。5百で籠る城に、10数万の大軍を引きつけました。
攻撃は連日続き、時には昼も夜も続きました。

いま気になるのは、隠岐の帝。
大塔宮の令旨は全国各地に届いているが、帝の綸旨は出せていません。
帝の綸旨が届けば、決起する者はさらに増えますが、幕府に反感を持つ武士である足利や新田にも届けられてしまいます。
平氏の政権に対抗して、源氏が挙兵した時のこと。
源頼朝が立ち、源義経がかけつけ、木曽義仲が暴れると、各地に眠っていた武士が一斉に立ち上がり、鎌倉幕府ができました。
同じことを今度はしてはならないのです。
だから、武士に対抗する軍が六波羅を落とさなければなりません。
円心も同じ考えのようで、寡兵であろうと、摂津から京を奪おうとしていました。

帝の隠岐脱出

帝が隠岐を脱出し、伯耆の名和長高に迎えられ、船上山で決起しました。
大塔宮は、千早包囲軍の背後を必死で攪乱しています。
そして、赤松円心は、繰り返し繰り返し、六波羅を攻めていました。
落とせないのは、あまりにも兵力の差があるからです。

赤松軍は、千種忠顕軍の残兵を吸収して1万に達していますが、ほんとうは千種忠顕軍こそ力になり得たはず。
名和長高が指揮していさえずれば、あれほど無様なことにはならなかったはずだが、帝は公家の千種忠顕に大将を命じました。
千種忠顕軍の残兵を吸収したところで、円心にはなんの力にもなりはしませんでした。

足利高氏の挙兵

足利高氏が挙兵しました。
六波羅が潰れるのは、あっという間でした。
赤松円心があれほど攻めに攻めても、攻めきれなかったのが、足利軍が加わると瞬時に落ちました。

京市中の治安は保たれましたが、足利軍が実に機能的に動き、六波羅の跡地に奉行所を作り、参集した武士の軍史状に証判を与えました。
つまり、そこに幕府が出現したようなものでした。

続きは楠木正成7

北方謙三氏の図書「楠木正成」のあらすじを紹介しています。
本を読んでいただくと、当時の畿内の状況や正成の周辺など、様々なことを知っていただけますよ。
詳しくは、ぜひ読んでください。

 

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