楠木正成5

北方謙三氏の図書「楠木正成」のあらすじを紹介しています。
前回のあらすじは、楠木正成4

赤坂城の戦い

金剛山麓の小高い丘があり、正成は2、3日で城を築くことにしました。
築城ではなく、とりあえず幕府の攻撃を受けてみて、力を測ることにしました。
そして、石を大量に集め、石だらけの城となりました。

正成挙兵の報は、畿内を駆け回っていますが、播磨の赤松円心は動きません。
やがて、六波羅が動き出し、和泉の御家人、和田が討伐の命を受けましたが、和田は正成と近い関係です。
ひそかに使者を往復させ、お互いに犠牲は出さず、それでいて激しく闘ったように見せることにしました。

六波羅の動きは、和田を通してある程度は分かり、六波羅は、笠置山と赤坂に叛乱を抱え、かなり混乱しているようでした。
しかし、畿内の悪党は、今の騒ぎを静観し、損得の勘定をしているようで、悪党の蜂起が頻発するわけではありません。
ただ待つのではなく、もう少し揺さぶって溢れさせることが必要なのかもしれません。

京に集結した幕府軍が、動き始めました。
途中で御家人を加えて、7万の大軍となり、本隊は笠置を囲み、2万が赤坂を目指して南進してきました。
笠置は1日しか持たず、帝は比叡山に向かう途中で捕らえられ、大塔宮は、赤坂へ落ち延びて来られました。
しかし、帝が捕縛されても、大塔宮がおられ叛乱もやまなければ、時勢がどう流れているのか悟る者はいる。
ほんとうの闘いは、これからです。

帝の捕縛から半月ほど経ち、幕府軍の本隊である7万の大軍が赤坂を目指してきました。
わずか1千が籠る小城に、唖然とするほどの大軍でした。
しかし、どれほどの大軍を擁していようと、一度に城に取りつける人数は、せいぜい数千。
当面は打ち払うことができます。
案の定、はじめから力押ししてきましたが、石や丸太を落としたり、熱湯をふりかけたり、塀を倒すなどして、場内には一歩も踏み込ませんでした。
また、正季を中心とした400の兵を城外に配し、奇襲をかけたりもしました。

7万の大軍相手によく闘ったところで、正成は、敵の陣営の一方向、右田の攻囲から逃げることにしました。
かねて決めていた通り、楠木一族は畿内各地に分散して潜伏しました。
また、敵兵の屍体を一か所に集めて、城を焼き、正成が死んだという噂を流したが、さすがに六波羅も半信半疑のようでした。

帝が隠岐へ配流となりました。
正成は、馬借や船頭、猿楽の一座を使い、「伊勢に誰のものとの知れない兵糧が大量に集まっている」、「大塔宮による帝奪還の動きがある」などの情報を流し始めました。
六波羅を疲れさせるとともに、叛乱がまったく終息していないという空気を作るために。
そして、大塔宮は令旨を発し、兵を集めるため畿内を走りまわりました。

続きは楠木正成6

北方謙三氏の図書「楠木正成」のあらすじを紹介しています。
本を読んでいただくと、当時の畿内の状況や正成の周辺など、様々なことを知っていただけますよ。
詳しくは、ぜひ読んでください。

 

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