楠木正成4

北方謙三氏の図書「楠木正成」のあらすじを紹介しています。
前回のあらすじは、楠木正成3

大塔宮の計画

皇太子と誰もが見ていた世良親王が病死しました。【元徳2年(1330年)】
最年長の大塔宮護良の存在が、きわめて大きなものとなりましたが、大塔宮は天台座主であり、還俗(一度出家した者が元の俗人に戻る)という動きは、まだはっきりしていません。

大塔宮は、和泉での悪人の蜂起が重大なことと考えていました。
和泉にとどまらず、摂津、播磨、河内と広がれば、六波羅を圧倒できることがはっきりと見えました。
しかし、悪党をまとめる方法は何か。

やがて、大塔宮は正成を比叡山に呼び寄せ、「私は朝廷の軍を組織したい。悪党をまとめてくれ。」と言いました。
しかし、正成の返事は「できません。」と。
なぜなら、悪党は”利”がないと動かないから。
新しい国が作られても、悪党には価値がない。
領地や銭を与えられれば、悪党に”利”があるが、朝廷には与える領地や銭がない。
朝廷は官位で釣ろうとするが、悪党に官位は価値がない。
正成は、こう理由を述べ、つまり朝廷など無意味だと言ったのでした。

正成は大塔宮に提案をしました。
悪党に、得をすると思わせれば、当然集まってきます。
銭が入る道、つまり、水運、陸運、海運が動くことを認めて、大塔宮が挙兵するならば、力を売ろうと。

元弘の乱の始まり

宮中で練られていた倒幕の謀議が洩れました。
密告したのは、帝の側近である吉田定房でした。【元弘元年(1331年)】
帝の謀叛は二度目であり、帝が退位に追い込まれれば、大塔宮も親王ではなくなってしまい、拠って立つどころではなくなってしまいます。

大塔宮から正成へ使者が来ました。
六波羅は、宮中を兵で囲み、帝を捕縛しようと考えているらしい。
それに備えるため、帝は脱出の方法を用意しており、宮中から脱出したあとは、帝自ら挙兵する。
帝の挙兵。正成が待っていたものでした。

笠置山の戦い

帝の身代わりが比叡山に向かい、帝は笠置山で挙兵しました。【元弘元年(1331年)】
比叡山の護良は、緒戦で六波羅軍を破り、そのまま笠置の帝に合流しました。
しかし、笠置がいつまでも持つとは思えません。
帝の首をはねるところまで、幕府は踏み切れないだろう。
いまはあまり無理をする時ではない、と正成は護良に伝えました。

幕府は、関東から大軍を出しました。
帝の挙兵に心の中で手を叩いていた者たちに、冷水を浴びせる大軍であり、足利高氏や新田義貞という源氏の流れをくむ武将も加わっていました。

朝廷からの使者が赤坂に訪れ、正成は帝に拝謁を許されました。
公家たちは、すぐに笠置山へ兵を向かわせるよう命じてきましたが、正成は、河内で挙兵すると言いました。
幕府はまだ強く、戦は長いものになる。
一戦の勝敗は気にかけず、最後に幕府を倒せば勝ちであると申し上げると、帝は「長い眼で見る。決して望みを捨てぬ。」とおっしゃられたのでした。

なお、この笠置山の戦いは、約1か月後、幕府軍が山に放火したことによって天皇側は総崩れとなり陥落。
天皇や側近らは幕府側に捕えられ、後醍醐天皇は神器を光厳天皇に譲渡し、元弘2年(1332年)に隠岐島へ流されました。

続きは楠木正成5

北方謙三氏の図書「楠木正成」のあらすじを紹介しています。
本を読んでいただくと、当時の畿内の状況や正成の周辺など、様々なことを知っていただけますよ。
詳しくは、ぜひ読んでください。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

もっと知りたい1 Star 0
読み込み中...