楠木正成2

北方謙三氏の図書「楠木正成」のあらすじを紹介しています。
前回のあらすじは、楠木正成1

京の異変

京では、新帝の後醍醐が親政(=天皇自ら政治を行うこと)を始めていました。【元亨元年(1321年)】
やがては六波羅との対立も考えられそうです。
関東でも、勅命をもった山伏が、従うべきは北条氏ではなく朝廷だと説きながら、方々を訪ね歩いていました。

護良親王

護良親王が三千院梶井門跡に入りました。【正中2年(1325年)】
ゆくゆくは天台座主(比叡山延暦寺の住職)になり比叡山に入ることが決まっています。

京で騒動が起こったのは、昨年9月。【正中元年(1324年)正中の変】
六波羅の軍勢が、倒幕の密議があったと言われる武将の屋敷を包囲したのです。
武将たちは自刃し、日野資朝、日野俊基という公家も捕縛されました。
父である帝は関与を否定し、鎌倉へ弁明の使者を立てました。
しかし、護良は帝こそが密議の中心にあることを知っており、日野資朝も俊基も、帝の密命のもと倒幕の挙兵に加わる武士を募って、全国を歩いていたのでした。

この密議の発覚直後、護良は出家を命じられました。
護良が天台座主(比叡山延暦寺の住職)になり、もし比叡山を動かせたら、全国の寺の衆徒も動き、10万を超える力になるはず。

しかし、実際には、武士の力が当てにされ、日野資朝も俊基も全国の武士を説いて回りました。
武士の支配を覆そうとした帝の考えは間違っていないが、説いて回り決起を期待したのが武士であるのは、いま権力を握っている北条一族からほかの武士に力を移すだけのことにならないのか。
武士を倒すのは、武士以外の力でなければならない。民の力こそ、国の力ではないだろうか。
護良はまず大和を旅しようと決めたのでした。

河内を制する正成

正成は妻帯してからも生活は変わらず、畿内や中国東部を歩き回り、人とのつながりを求めました。
物がさらに河内に集まるようになり、河内は富める国になりつつありました。
民の仕事が農耕だけでなく、馬借や船頭といった運送に携わる者などいくらでもあり、物が集まるゆえに商いも盛んとなっていました。

自分のやってきたことが河内の土豪に認められていると分かりましたが、官位もなく地頭でもない正成が河内を制しているとなると、六波羅も見過しはしないだろうという思いもありました。

鎌倉では得宗の北条高時が気まぐれに出家し、混乱が起きていました。【正中3年(1326年)】
しかし、その機に乗じて幕府を倒そうとする武士は、現れませんでした。

続きは、楠木正成3

北方謙三氏の図書「楠木正成」のあらすじを紹介しています。
本を読んでいただくと、当時の畿内の状況や正成の周辺など、様々なことを知っていただけますよ。
詳しくは、ぜひ読んでください。

 

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