蘇我入鹿と河合寺

蘇我入鹿と言えば、飛鳥時代に権力をふるいながら、最後は中大兄皇子と中臣鎌足に討たれてしまったということで有名な歴史上の人物です。
自分が権力を握るために、人望の厚かった山背大兄王(聖徳太子の子)を殺害するなど、天皇家にもたて突く恐ろしい面を持つ人物ですが、名前が「いるか」というなんだかかわいい名前だったため、小学校時代の歴史の時間で、私はすっかりこの人物のファンに。
ちなみに、「いるか」さんのおじいさんの「うまこ」さんも名前がかわいくて好きでした。

私にとっては、この蘇我入鹿氏は非常に有名人ですが、皆さまにとってはいかがでしょうか。
また、飛鳥時代と言えば、奈良県が舞台というイメージでしたが、河内長野市にある河合寺は、なんと蘇我入鹿が創設したそうですよ。
そこで、今回は、蘇我氏の繁栄から凋落までを、追ってみたいと思います。

蘇我氏と物部氏

蘇我氏は、飛鳥時代の有力な豪族でした。
過去に大臣となった一族は他にも複数ありましたが、540年頃、欽明天皇の代には、蘇我氏と物部氏の二大勢力となっていました。
両氏は、娘を天皇家に嫁がせるなど、いわば平安時代の藤原氏のように、天皇家の外戚となっていたそうですよ。
蘇我氏と物部氏は、勢力争いを行いながら、蘇我馬子と物部守屋の代となりました。

欽明天皇の皇子、用明天皇(母は馬子の姉)が即位すると、蘇我馬子は、天皇の叔父として優位に立ちます。
一方の物部守屋は、用明天皇の異母弟、穴穂部皇子と結託し、皇位を狙いました。

587年、用明天皇が崩御すると、早速皇位をめぐる馬子と守屋の争いに。
守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしましたが、馬子が先手を打ち穴穂部皇子を殺害。
さらに、諸皇子、諸豪族も馬子の味方をしたため、守屋は河内へ逃れます。
翌月には、馬子は守屋を滅ぼすため大軍を挙兵し、守屋を討ちとったのでした。
ちなみに、用明天皇の皇子、厩戸皇子(のちの聖徳太子)も馬子側でした。

蘇我氏の繁栄

この戦いにより、権力が馬子に集中します。
次の天皇である崇峻天皇の即位、そして暗殺。その次の天皇である推古天皇の即位。皇室の領地の割譲の要求。
馬子は、天皇をないがしろにしたふるまいをします。


一方で、初の女帝である推古天皇の代には、推古天皇の甥である厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子・摂政となりました。
聖徳太子は、大臣である馬子と合議しながら、603年には冠位十二階、604年には十七条憲法を制定して天皇に権力を持たせ、遣隋使の派遣により隋から制度や学問を輸入しました。
馬子は、聖徳太子に危機感を覚えたと言われています。

622年には聖徳太子、626年には馬子、628年には推古天皇が相次いで亡くなります。
馬子の子、蘇我蝦夷は、推古天皇の崩御後、山背大兄王(聖徳太子の子)を天皇に推薦した叔父を殺害し、舒明天皇のもと、馬子同様に天皇をないがしろにふるまいます。
643年、蘇我氏の実権が蝦夷の子、蘇我入鹿に移ると、入鹿はより蘇我氏の意のままになると見られた古人大兄皇子の擁立を企て、その中継ぎとして皇極天皇を擁立します。
そして、邪魔になる山背大兄王を自殺に追い込みます。また、皇室行事を独断で行うなど、権力者としての地位を固めます。
河合寺は、この643年に皇極天皇の命令により、蘇我入鹿が創設したと言われているそうですよ。

蘇我氏の凋落

しかし、このようなふるまいが許される訳にはいきません。
645年、古人大兄皇子の異母弟である中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足により、皇極天皇の御前で殺害されたのでした。(乙巳の変)
その翌日には、蝦夷も自害し、蘇我氏は凋落。

そして645年からは、孝徳天皇が即位し、中大兄皇子が皇太子、中臣鎌足が内臣として、有名な「大化の改新」が始まりました。

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