天野山金剛寺、観心寺を行宮とした天皇

南北朝時代、正平9年(1354年)~正平14年(1359年)まで、後村上天皇が河内長野市にある天野山金剛寺の摩尼院を行宮、食堂を正殿として政務を執りました。

その後は、観心寺にも行宮を移すなど、河内は南朝の本拠地であったそうです。

後村上天皇の父親は、足利尊氏とも戦った後醍醐天皇です。
「後醍醐天皇」や「南北朝」は、学生時代に歴史の時間でも習いましたが、後村上天皇のことは全く知りませんでした。
そこで、南北朝時代の天皇家について、調べてみることにしました。

南北朝のきっかけ



図の一番上、後嵯峨天皇は、鎌倉幕府第3代執権北条泰時が天皇として擁立し即位させた天皇であり、後嵯峨天皇(上皇)の時代は、鎌倉幕府による朝廷支配が進んだ時代でした。
とは言え、朝廷の中で権力争いが起こります。
後嵯峨天皇は天皇を退いたあと、長男の後深草天皇を即位させますが、後嵯峨上皇となって引き続き政務を執りました。
後深草天皇は、父親に院政を敷かれ実権を握られた名前だけの天皇でしたが、その後退位させられ、後深草天皇の弟である亀山天皇に皇位を譲らされます。
そのうえ、後嵯峨上皇は、後深草上皇の皇子ではなく亀山天皇の皇子を皇太子にしてしまいます。
そして、文永9年(1272年)、後嵯峨上皇が崩御すると、後深草上皇(持明院統)と亀山天皇(大覚寺統)の間で確執が起こりました。
この確執が、のちに南北朝となり、約200年もの争いが起こるきっかけとなりました。

この時には、鎌倉幕府が仲裁に入り、両者の子孫の間で交互に皇位を継承するよう決めたため、以後、持明院統と大覚寺統は、交互に天皇となっていくことになりました。

後醍醐天皇

文保2年(1318年)に即位した大覚寺統の後醍醐天皇は、やがて鎌倉幕府の倒幕運動を始めます。
元弘の乱により鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、元弘3年(1333年)より天皇が自ら行う政治「建武の新政」を行うことになりました。
建武の新政により、天皇家は大覚寺統に統一されたかに見えましたが、2年半後、後醍醐天皇は建武の乱にて足利尊氏に敗れ、建武の新政は終わります。

建武の乱に勝利した足利尊氏は、室町幕府を起こすとともに、持明院統(北朝)の光明天皇を擁立します。
一方、後醍醐天皇は吉野に逃れたものの、自分が天皇であるという正当性を主張して南朝となり、南北朝時代が始まりました。

後醍醐天皇は、各地に自分の皇子を送って北朝と争いますが、北朝優勢のまま、延元4年(1339年)に後村上天皇に譲位し、死去してしまいます。

後村上天皇と天野山金剛寺

後村上天皇は、後醍醐天皇の遺志を継ぎ、近畿を中心に寺社や武士に対して綸旨を発して戦います。
当初は劣勢だった南朝ですが、足利氏の兄弟争いが起こったことにより、足利尊氏が弟足利直義と南朝とに挟み撃ちをされることを恐れて南朝に降伏したため、逆に北朝の天皇は後ろ盾をなくし廃位します。
北朝の三上皇(光厳、光明、崇高)は、天野山金剛寺に幽閉されます。


しかし、時代の流れは室町幕府へ。
南朝は、足利尊氏が直義を追討するため関東に向かった際に、和睦を破り京を占拠します。
足利尊氏の嫡男で後に室町幕府2代将軍となる足利義詮にすぐに反撃され、南朝が逃亡する中で、後村上天皇は、正平9年(1354年)~正平14年(1359年)まで天野山金剛寺を行宮、正平14年(1359年)から約10ヶ月間は観心寺に行宮を移します。
一時期、天野山金剛寺には、南北の行宮が置かれていたことになりますね。
その後も南朝は足利軍と戦いを続けますが、南朝は弱体化し、正平23年(1368年)、後村上天皇は崩御されたのでした。
ちなみに、北朝の光厳上皇のお墓は、現在も天野山金剛寺内にあります。

南北朝のその後

なお、南北朝は、元中9年(1392年)、南朝の後亀山天皇と北朝側の室町幕府3代将軍足利義満が和約を結び、大覚寺統(南朝)の後亀山天皇が三種の神器を持明院統(北朝)の後小松天皇に引き渡す形で、南北朝の分裂は終わります。
しかし、この和約は、南朝と室町幕府で決められており、北朝の後小松天皇は内容を知ると反発します。
和約の条件であった、持明院統と大覚寺統が交互に天皇となっていくという約束を後小松天皇は破り、自分の皇子に皇位を譲ります。
その後もこの約束は遵守されず、持明院統(北朝)だけで皇位は継承されていき、南朝側は応仁の乱の頃まで反抗を続けたのでした。

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