応仁の乱と河内国の家督争い2

河内国の畠山氏の家督争いから、文正2年(1467年)、応仁の乱の前哨戦と言われる御霊合戦が起こり、義就が政長を破ります。

応仁の乱

この御霊合戦により、西軍(山名宗全・畠山義就・斯波義廉)と東軍(細川勝元・畠山政長・斯波義敏派)の戦いが始まり、これらに将軍家、畠山氏、斯波氏、山名氏、京極氏、土岐氏、六角氏、富樫氏などの家督争いや権力争いなどが加わっていき、応仁の乱へと発展します。

応仁の乱は、御霊合戦を契機に前半は京都を中心とした山城一帯が主戦場でしたが、次第に地方へも拡大していき、 全国的な争いとなりました。
河内の烏帽子形城(河内長野市)、仁王山城(河内長野市)なども戦場となったそうです。

この争いは長期化します。
また、家督争いや権力争いなど複雑に色んな争いが絡んでいたため、途中で西軍・東軍のメンバーが入れ替わるなど、普通では考えられないようなことも起こります。
将軍家では、東軍の足利義視(8代将軍義政の弟で養子)が西軍へ移り、足利義尚(義政の子、9代将軍)と日野富子(義政の妻)が東軍へ移ります。各地の大名の寝返りなども起こります。

応仁の乱終結

文明4年(1472年)になると、勝元と宗全の間で和議の話し合いが持たれ始めます。
長期に渡る戦いに、みんなが辟易していたのでしょう。
しかし、様々な大名が絡む争いであったことから、反対も多く和議は失敗に終わります。
勝元は、嫡男を廃嫡して、実子で宗全の外孫に当たる聡明丸を擁立した後、出家してしまいます。
一方の宗全は、自殺未遂を起こしたあと、家督を嫡孫に譲り隠居してしまいます。

文明5年(1473年)、山名宗全と細川勝元が相次いで死去すると、両者の後継者によって和睦交渉がなされます。
しかし、畠山政長と畠山義就の大反対で頓挫。
それでも文明6年(1474年)、山名政豊と細川政元の間で和睦が成立します。
その後も小競り合いが続きますが、文明9年(1477年)、畠山義就が畠山政長の追討を名目に河内国に下国し、西軍の大内政弘が京から撤収したことによって、西軍は事実上解体され、京都での戦闘は終わります。

畠山氏の当主政長と、実質支配する義就

政長は、文明9年(1477年)に3度目の管領に就任しますが、この頃の管領は権力がなかったうえ、名目上の河内守護と畠山氏当主は政長であるにも関わらず、河内を実質支配しているには義就でした。
また、幕府は義就に対し、度々追討令を出しましたが効果はありませんでした。

文明9年からはしばらく戦いはありませんでしたが、文明14年(1482年)、幕府の命を受けた細川政元と畠山政長連合軍が義就追討に出陣します。
義就は細川政元単独と和睦し、政長とは河内にて戦いを継続します。
やがて、義就は河内から山城国南部に侵入し、翌文明15年(1483年)に南山城を支配して、河内の政長を追い払い、河内の支配を確立します。
しかし、主戦場となった山城では、文明17年(1485年)に国人一揆が起こり(山城国一揆)、畠山両軍は撤退を要求され、義就軍は河内に引き上げました。
その後も義就に対して幕府から追討令が出されましたが、実行されないまま終わったのでした。

政長と義就の最期

延徳2年(1491年)、義就死去。
義就の家督と河内と大和の支配は、次男の基家が継承しました。

一方の政長は、延徳元年(1489年)に10代将軍足利義稙が就任すると、義稙と連携を組んで家督を維持し権力を得ます。
しかし明応2年(1493年)、細川政元が将軍廃立と実権奪還を目的とした明応の政変を起こし、政長は河内正覚寺城を包囲され自害したのでした。

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