応仁の乱と河内国の家督争い

応仁元年(1467年)~文明9年(1477年)の11年間にわたって行われた応仁の乱。
室町幕府の管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府の8代将軍の足利義政の後継者争いも加わり、全国的な争いとなったというところまでは、学生時代に学んだのですが・・・。

応仁の乱のきっかけとなった畠山氏の家督争いは、なんと河内地域で起こったそうです。
そこで、畠山氏について、色々と調べてみました。


畠山氏家督争いのきっかけ

室町幕府の管領、畠山持国は、河内、紀伊・越中・山城の守護大名でした。
畠山持国には跡継がおらず、子どもは母親の身分が低い義就のみ。そこで、持国の弟である持富が後継者となりました。
しかし突然、持国は後継者を持富から義就に変更し、宝徳2年(1450年)、義就が家督を継承します。
持富は異議をとなえることはなかったものの、義就が継承した2年後に、亡くなってしまいます。
持富が死去すると、義就の継承について持富の子が反抗し、畠山義就と持富の子(義就のいとこ)畠山政長による家督争いが始まりました。

畠山義就と畠山政長の争い

康正3年(1457年)、大和の争乱が起こった時、義就はその対応に失敗し、8代将軍、足利義政の怒りを買って所領を没収されてしまいます。
長禄4年(1460年)には、足利義政の命令で、失脚した義就に代わり、政長が幕府に仕えます。
そして、寛正元年(1461年)、幕府から義就に政長への家督交代命令が出て、それを拒否した義就は、反逆者として幕府に追われることに。
義就は河内へ逃亡し、細川勝元は幕府の義就討伐命令を取り付け、一族・諸大名を召集して河内へ向かいます。
義就は嶽山城(富田林市)に籠城し、寛正4年(1463年)まで2年にかけて戦ったのでした。(嶽山城の戦い)
常識で考えれば、大軍である細川勝元が圧倒的に強いはずですが、義就は図太く、幕府軍の攻撃はことごとく撃退されたそうです。
戦い開始から1年半後の段階で、幕府軍は、支城の金胎寺城(富田林市)を落とせたのみでした。
寛正4年(1463年)、幕府軍はようやく嶽山城を陥落させることができ、その功績から寛正5年(1464年)、政長は細川勝元より管領の職を譲り受け就任したのでした。

細川氏と山名氏の争いへ

細川勝元は、政長を通して畠山氏を取り込み、勢力を拡大します。
しかし、幕府において細川氏に次ぐ勢力であった山名宗全は警戒を始め…。
畠山氏のいとこ同士の家督争いが、幕府の二大勢力である細川氏、山名氏を巻き込みます。

ひっそりと暮らしていた義就でしたが、寛正4年(1463年)11月には、足利義政により赦免され、山名宗全・斯波義廉の支援を得て挙兵をします。
文正元年(1466年)12月には、河内から義就が上洛。
義就は、足利義政との拝謁も行い、政長に管領職を辞任させたのでした。

翌文正2年(1467年)1月には、義就軍と政長軍が京都の上御霊神社において衝突し、義就は政長を破ります。(御霊合戦)
この御霊合戦が、応仁の乱の前哨戦と言われているそうです。

河内でこんな家督争いが起きていたのですね。
知りませんでした。

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